ぶらり探訪
■その他
千僧供町の地名由来
最終更新日 2008.11.23 12:12
 千僧供町の地名由来については、「千僧供は千・十ともいう」と記す温故録を始め、数多くの興味深い伝承がありますが、いずれも古代・中世における政治・経済・社会的地位と性格、仏教的雰囲気と古代文化のゆかしさを伝えています。
 
①千僧供村は、平安時代、延暦寺の荘園であり、日吉神社の祭神「十禪師權現」との旧称で坂本日吉神社の分社である椿神社(明治以後の社号)が置かれたのも当然である。延暦寺の荘園で千僧供養の料田であって、たびたび供養料を延暦寺に納めていてそれが地名の由来の一つであろう。

②源平盛衰記によると、平安末寿永2年(一一八三)平氏一族が連署して延暦寺に送った起請文(誓詞に、亡き平清盛の菩提のために佐々木庄内(千僧供村)の得分(荘園役人の得た利益)を千僧供料として寄進していて、古代・中世を通して、長期にわたりこの関係が続いていた。

③近江与地誌略によると、浄土教の民間僧の空也上人が千僧供養を行ったと云われる。

④第五十五代文徳天皇の不運の第一皇子帷喬親王が流離の末この地に葬られ千僧供養が営まれたとあり、その塚が供養塚古墳と云う説があるが、時代が合わず疑わしい。

⑤また、鎌倉時代法然上人の弟子住蓮房がこの地で、安楽房が六条河原で誅せられ古墳に葬られその菩提をとむらうため千人の衆僧を招じ法事を営み供養したという。

⑥法然上人の弟子であった住蓮房安楽房が処刑されて以来、両上人のお徳を慕う人々が寺院を建立し安楽寺と名付け、池を住蓮池と名付けて千人の僧を招き七日七夜供養したこのことがあって千僧供村と言うようになった。元禄二年秋、現在の地に塔を二基造立した。(馬場家に伝わる江州蒲生郡馬淵村御僧塚縁起による)

⑦貞観一七年(八七五年)頃、藷国に悪病が流行し大勢の犠牲者がでた。惟喬親王が近江国君ヶ畑へ巡錫されたとき病苦の悲惨さに心を痛め「曼茶」( 「」羅坊大同三年八〇八年行基菩薩開創千僧供廃寺と称す)に滞在し千人の僧による病魔退散の祈祷供養をした。故に、地名も「千僧供養村」と称するようになった。(冷泉寺の寺歴による)