■住蓮房首洗い池
鎌倉時代前期の僧侶で法然の弟子であった住蓮房が、後鳥羽上皇の怒りに触れ処刑された際に、その首をあらったといわれる。
住蓮房は、鎌倉時代前期の僧侶。法然房源空の弟子で美声であったという。専修念仏の弘通につとめ、安楽房とともに所々で別時念仏会に六時礼讃を行い、僧俗の帰依を受け、貴賊を問わず教えを広めた。
当時、都では法然上人の念仏教団が既成の教団から疎まれつつも力を得つつあった。しかし、南都北領の念仏者弾圧は執拗で、建永元年(1206年)2月には、興福寺によって法然上人、安楽らとともに、罰科に処せられるよう訴えられている。
同年12月、後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は、安楽と東山麓ヶ谷で六時礼讃を唱えた。これに帰依渇仰する人多く、それがきっかけで後鳥羽上皇の二女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依した。これを知った後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮は翌、承元元年(1207年)近江馬淵の荘の池のほとりで処刑された。その首を洗ったと言われるの池が、この「首洗い池」である。
「見になれし錦の小袖やきすてて弥陀のみ国に墨(住)染の袖」
(上・松虫姫、下・鈴虫姫)